Gallery Kochukyo about us exhibition artists blog access
spacer.gif
schedule
spacer.gif
highlights
spacer.gif
profile
金重有邦
伊部水指 高15 x 径21 cm
spacer.gif
会期:2016年6月13日(月) — 18日(土) 
spacer.gif
時間:10:00 — 18:00 (*最終日は17:00閉廊)
spacer.gif
会場:壺中居2F・3Fホール    MAP ►►

窯火鍊魂

 陶磁を素材とする造形はどこに向かっているのか、この半年、有邦さんと美術館の学芸員さんと、時々に三人でする座談の話題であった。一方に、土と窯火によって表現する抽象の造形や彫刻がある。他方、有邦さんたちは日本の伝統に根ざし実用を旨とする工芸の作家として立っている。悩ましいのは、双方の人たちがいかなる自覚のうえに創作を実践しているのか、定見を欠き製作の意図や目的があやふやなことである。世人の称賛をもとめ思いつきを形にして個性の産物であると名のる作品が氾濫している。
 有邦さんは食器を中心にした製作からはじめ、中年、花入・水指・茶入・茶碗・酒器などさまざまに自己の形式を追求してきた。繊細かつ強靱な精神は妥協することがなく、たびかさねた展覧会は変容の過程となって現れた。そして展覧会ごとの変化は、全く新しい形式の提唱と見えた。しかしそれらのいずれにも、次々と挑んで生み出される土の造形と、窯火を掌握しようとする経験のつみかさねとをひとつにする、通奏低音のような作者の個性が現れていた。
 このたびの展覧会は二度にわたって延期され、窯入れは一年ぶりのことであった。そこに作者の逡巡がうかがえる。窯出しのあとの述懐であるが、逡巡の原因は矢筈口やはずぐちの水指や花入の製作に手をそめるべきか否かという自問であった。父のもとで作陶の修練をはじめたときからの躊躇であった。矢筈口の水指や花入は桃山時代備前の得意であり、近代伊部の常套でもある。父祖の形式に安易に近づくことをいさぎよしとせず、桃山茶陶の演出を白眼視して今日に至ったのは、矜恃であり内向の癖でもあった。
 今になってあえて挑んだのは、茶陶の作為を追いつめ、おのれの作為が伝統を乗り越えた時の姿を見てみたいと思う好奇心であろう。また、おのれの窯技が水準に達したのではないかという予感でもある。試みて現れた物には、焼き締めに降る灰と、「サンギリ」のおきが生み出した新たな形、新たな装いが表出されていた。
 古備前の茶陶は、作為に満ちた形が窯技によって包まれ、成熟の姿があらわである。金重有邦が目指したところは、おのれの器形が窯技の外装に負けずに存在することであろう。その想いはほぼ遂げられ、窯焚きにたずさわった弟子たちと、古人先輩に恥をかかずにすんだと安堵し祝いあったという。金重家の床に置かれた花入、水指は堂々として力を示し、観者に媚びた器々とは対峙する存在となっていた。
 ここにある器々は、作為の限りを尽くし、なめまわすようにしてかたどられている。指先と爪先さらに工具の先端に造形の意識を集中し、撫で削った入魂の作為が、作為の概念を超えているなら本望であると宣言する。作為の極限に見えてくる天成造化との緊密な接近である。
 作者は考察する。究極の作為は神技に近寄り、万物と作品と双方に内在する美を表現することができるのではないか。さすれば工芸の具象は、抽象芸術が直に表そうとする作者の精神、人間存在の真実、事物の美的真実などと邂逅し、矛盾しないのではないか。それは神がかかわる造化と芸術が実践する創作が、限りなく接近しなおかつ一致せず、人間の精神活動として孤立するという自覚である。
 三十年余の交友の間に見た有邦さんは、焼き締めの素地を見せ、田土の味わいを追求し、火襷の変化を演出しつつ、大壺・小壺・水指・茶入・茶碗・花入そしてさまざまな食器を製作してきた。しかし、降灰が熔けてできる釉と、「サンギリ」による器表の装いを取り入れることを長らく拒んできた。自ら「ゆらぎ」と名のった一連の花生を発表した時から形姿をさまざまにこころみることをはじめ、智美術館における「生まれくるもの」展の前後に山土を用いた窯技を自得した。一度焼き上がった山土の碗などを窯の火前に置き、炎とおきで攻めぬく焼成である。器形と窯技を執拗に追究するこのような創作の努力が今回の表現を生んだといえる。しかも鍛えあげた器形が、窯火が生む激しい攻勢に耐え、以前の矢筈口の備前にはなかった毅然とした形式に到達した。
 毅然と言えば従来をおとしめることになるかも知れない。姿を似せながら衣装と演技を一新し、別の形式が演出されたと言い換えることもできるだろう。そのことはつぶさに矢筈口の形状を観察すればあきらかになる。口の外側、狭い斜面の幅と角度の緊張や、内に向かって繰り込んだ縁の鋭い切り口、これらは作者の意図に満ちた工夫である。
 そのような細部を見ながら話し合ったのは、しんにょうの末端や永字八法のなつにおける用筆のことである。辶の末端はすっと抜き去るのではなく、最後の瞬間まで集中を途切らさず、自己の造形を完結しようとするのが中国人の用筆であると論じ、互いに頷いた。かな文字の流れるように優美な筆使いと、筆先に気を込めて不乱に文字や描写対象の形をなす遊絲書ゆうししょ・遊絲描との対比も同じであろう。中国の用筆にあらわれるのは骨気である。人間精神の根幹である。
 商・西周時代の金文、戦国・漢時代の官印に鋳出された篆書、明・清時代の篆刻印の筆画ひっかくなどと、有邦さんの作品の刻線、また工具・指先・爪先による彫刻、轆轤削り、指の腹でする撫でや擦りにも、同質の精神的集中があり、高台の削りや口造りには神経を途切らさない緊迫の技がある。
 そのような製作が遂行された結果として、個性が凝結した形式が完成し、作者の骨気あるいは清澄の精神が表される。作為の究極に実現される心神の表出である。実用に供される工芸作品は、抽象芸術が直接的に自己の精神を表現しようとする製作態度と交錯し、表裏の関係が成立する。
 金重有邦は、つくりにつくってその先に無心の、あるいは自然の造形が実現すれば理想であるという。それでは「七十而従心所欲不踰矩(七十にして心の欲するところに従いてのりをこえず)」(『論語』為政)という孔子の境地を飛びこえ、荘子がいう庖丁解牛の妙(『荘子』養生主)をめざして老境に踏み込むことになる。

 本展の作品群は、とくに「焼けなり」を重視して製作されたところが従来とはいささか方向を異にしている。焼け態は窯にまかせ、窯の自然が支配するという説明がなされることがあるが、九割をおのれが支配し、残りの一割弱が神さんの領分であると主張する。九割と一割の狭間を見すえて昼夜窯火とやりとりする数日、積み重ねてきた経験をたよりに完成の域に近づく。その間、窯火は作品の本質とともに作者の精神をも鍛錬する。「窯火鍊魂」とした由縁である。

中野 徹   



▲PAGE TOP▲

Copyright 2016 Gallery Kochukyo. All rights reserved.